New York 珍道中 / お墓参りの巻
俺がJohnny Thundersという人物を知ったのは、82年に国内盤でリリースされたSid Viciousのライブアルバム 『SID SINGS』 のライナーノーツだった。その中でSidが歌っている 「Born To Lose」 「Chinese Rocks」 のオリジネイターとしてJohnnyの名を発見したのだが、まず思ったのは 「なんてカッコいい名前なんだろう」 ということだった。Johnnyときて、しかもThundersである。カタカナで書いてもジョニーサンダース。口に出して発音しても相当カッコ良い響きである。おまけにハートブレイカーズというバンドをやっていたなどと言われた日には、Johnnyのルックスはおろか、どんな音を出す人なのか全く解らないにも関らず「絶対カッコいい人に違いない」 と思い込んでしまったのだった。もっとも後日Johnnyのルックスを写真で確認し、俺の直感に狂いがなかったことを確信するのだが。
その後高3ぐらいになってUKエジソンや新宿レコードあたりに出入りし始めた頃、俺が初めて手にしたJohnnyのレコードが 『L.A.M.F. - REVISITED』 だった。それを大事に抱え期待に胸を膨らませながら家へ帰り、針を落して1曲目の 「One Track Mind」 が始った時の興奮はいまだに忘れない。何というか、体中からウロコが剥れ落ちたとでも言うべきか。その頃はまだJohnnyをパンクロッカー的に捉えていたせいかもしれないが、それまで聴いていたSEX PISTOLSやCLASH、DAMNEDなどとは明らかに違う何かを感じ取ったのであろう。とにかくスウィンギーな躍動感に溢れ、しかも表情豊かな13曲は俺を虜にするには充分だったが、続けて手に入れた 『SO ALONE』 によって俺にとってのJohnny Thundersという存在は決定的なものとなった。
それ以来、世界一カッコ良いロックンローラーはJohnny Thundersであり、世界最高のロックバンドはHEARTBREAKERSをおいて他には有り得ないという、単純極まりないファン心理のみで彼を追い続けて来た訳だが、4度目の来日公演も無事に終了した直後に起った悲劇は余りにも突然過ぎた。いつもの様に、何気なく近所の本屋で「宝島」を立ち読みしていた俺の眼にその悲しい知らせはいきなり飛び込んできた。「ウソだろ… ? !」頭の中が真っ白になった俺はその場にヘタりこみ、しばらく立ち上がれなかったのを覚えている。その晩、数週間前に行われたJohnnyのライブを一緒に観に行った無二の友人であるyajimakin氏に電話でJohnnyの訃報を伝えた。
そして10周忌を迎えた2001年。相変らずどころか更にJohnnyへの思いは慕り、こうしてFAN SITEなるものまで運営している有様なのだが、色々な意味で俺の人生に影響を与えてくれたJohnnyに一言お礼を言っておきたいという思いがムクムクと頭をもたげ始めた。Johnnyという人物を介しての様々な人との出会い。そして何よりも、Johnnyについてモノを書き報酬を受け取ったことへの感謝。先祖や友人の墓参りにさえ行ったことのない俺だが、今回ばかりは真剣にN.Y.行きを考え始めていた。そんな時、偶然にも同じくJohnnyの墓参へ思いを馳せていたグラフィックアーティストのTSOUSIEと知り合い、共に渡米することになった。
なるべく暖かいうちに、出来ればJohnnyの誕生日あたりを狙って行こうと速攻でパスポートまで取得したのだが、互いの都合が合わずそのまま夏も終ろうとしていた9月11日、あの忌わしき米国同時多発テロは起った。ブラウン管からは衝撃的な映像がタレ流され、マンハッタンには巨大な瓦礫の山が出来上がった。すぐにアメリカの報復攻撃も開始され、「この先世界はどうなってしまうのか?」とハラハラしたものだが、「果してJohnnyのところへ行けるのだろうか?」という心配の方が勝っていたというのが正直なところである。
その後米軍によるアフガニスタン空爆も日常化し、オマケに炭疸菌騒動も勃発するやらで、一体いつになったら安心して渡米出来るのか目処すら立たない状態だったところへ、10月下旬頃だったかTSOUSIEより「何としても10周忌の今年中に行きたい」との申し入れがあった。俺としても決意の固まっている今を逃したらいつまで経っても行けないような気がしていたし、行けば何とかなるだろうということで格安ツアーに参加することにし、11月22日の便で発つことがトントン拍子に決定した。まったく勢いとは恐ろしいものである。
ところで今回の墓参に際して、俺には自分が仕事をさせてもらった「DOLL」2001年5月号を墓前に供えたいという目的があった。出発を目前に控えたある日、Johnnyへのメッセージでも添えようと思い気の利いたカードを探したのだが見つからず、ふと壁に目をやるとEddie Cochranのシングル盤が貼ってあった。おもむろにそれを引っぺがし、スリーブにJohnnyへの感謝の気持ちをマジックで書き殴り「DOLL」と一緒に透明のビニールで包んだ。果してJohnnyは天国で無事にEddieに会えたのだろうか?
そうこうしているうちに出発当日がやって来た。初めての海外、しかもテロ事件&炭疸菌騒動後のN.Y.という訳で、かなりビビりまくっていた俺は前夜に痛飲した挙句に朝寝坊。何とか成田まで辿り着き、「さて、そろそろ出発時間だな」と、ふと電光掲示板(なんていうのだろうか?あれは。発着便の時間とかが表示されてる奴)に目をやると信じられないような文字が。「CANCELED」…ガーン!一瞬、自分の目を疑ったが、何と我々の乗るN.Y.直行便が欠航になっているではないか。これ以上はないという位の出鼻の挫かれ方である。速攻で代理店に電話を入れ指示を仰いだところ、「とりあえずゲートを入ってしまえば何とかなるでしょう」と、頼もしいんだか何だかよく解らない返事。言われるままにゲートインして時間を潰していると、どうやらサンフランシスコ経由の代替便が用意されたとのこと。結局さんざん待たされた挙句に無事フライトしたのだが、こうして俺の初海外旅行は波乱の幕開けとなった。
そして十数時間後、ハイジャックされる事も墜落する事もなく経由地であるサンフランシスコ空港に降り立ったのだが、時期が時期だったせいか、やたらチェックが厳しくかなりムカついた。革ジャンは勿論のことブーツまで脱がせられ、手荷物のリュックの中まで調べられる始末。もう一本の列を見ると彼女も同じような目に遭っている。そんなに俺達のルックスが怪しかったのだろうか?そう言えば、アジア系と思しき税関の係官には「あの女性はブロンドだけど日本人なのか?」などと不躾なことも言われた。うるせえ、余計なお世話だろうが。日本にはなぁ、黒人より黒いコギャルだっているんだよ。と、ムカつきながらもなんとか入国を果たし、喫煙所の全く無い空港内で地獄のような暇を持て余した後、N.Y.行きの便に乗り換えサンフランシスコ空港を飛び立った。
当初の予定では午後3時過ぎに到着するはずだったのだが、直行便の欠航と乗り継ぎによる時間のロスのため、J.F.K.空港に着いた頃には既に夜の9時を廻っていた。そのまま代理店の用意したミニバンに乗せられホテルに直行となったのが、フリーウェイを走っている途中でクィーンズ地区を示す標識を見たとたん、「あぁ、俺は遂にJohnnyが生まれ育った街に来たんだ」という感慨が込み上げ目頭が熱くなってしまった。明日はこの街の外れにあるSt. MARY'S CEMETERYにJohnnyとJerryの2人を訪るのだ。すっかりウルウルの涙目になった俺には、左前方に望むマンハッタンの夜景が100倍キレイに見えたような気がした(もちろん初めて見たのだが)。
翌日は早めに起き、さっそく墓参りに出掛ける事にした。St. MARY'S CEMETERYに最寄りのFLISHINGまでは、42nd. St.から出ている7番の地下鉄に乗りそのまま終点まで行けばよいのだが、問題はそこからである。FLUSHINGという街はアジア系の人達が多く、漢字やハングル文字の看板がやたら目立つのだが、街を流しているタクシーが殆ど見当たらない。ひとまず墓前に供える花を買うべく花屋を探しがてら住所を頼りに歩き始めた。花屋はすぐに見つかり、彼女の提案でJohnnyには真っ赤なバラを13本とJerryにはラッキーセブンで7本という事で計20本を購入。途中でバスに乗り、墓地がある通りのBOOTH MEMORIAL AVE.まで来てはみたものの番地が恐しく離れている。しかもAVE.沿いに走っているバスはないため、仕方なく広大な住宅地の中の一本道をひたすら歩くハメになってしまったのだが、これがまた途方に暮れるような道程だった。標識に書かれた番地が一つずつ減っていく度に喜びを噛締めながら、まるで電波少年のような風情も漂い始めた頃、突然住宅地が途切れ目の前の柵の向こうに墓石が見えた。「ここだ!」俺は遂にJohnnyとJerryの眠るSt. MERY'S CEMETERYに辿り着いた。
すっかり棒のようになった足を引き摺りながら正門へ向い、2人の眠る場所を確認しようと事務所まで行くと、守衛(?)のようなオジサンが俺達のルックスを見るなり「Johnny Thunders ?」と話し掛けてきた。「よっしゃ、それなら話は早いぜ」とばかりに事務所へ通してもらい、2人の場所をマークした墓苑の地図をもらった。真っ先にJohnnyの眠るブロックへ向かい、写真で見たことのあるイメージを頼りに探すこと数分、やっと見つけたその墓石は実にひっそりとした姿でそこに佇んでいた。供え物すら全く無く、僅かながら落ち葉と土埃を被っている。思わず素手でそれを払い除け、花を手向けたあと跪いて手を合わせた。そして持参した「DOLL」と両切りのラッキーストライクを墓前に供え、しばらくの間そのままボーッとしていたが、そんな気分にさせる雰囲気がそこにはあった。日本の墓地とは違いジメジメした感じが全くないのである。もちろん生前のJohnnyとは話した事もなくライブ会場の客席から見ているだけだったが、実際にお墓の前に立ってようやく「俺は今、世界中の誰よりもJohnnyの近くにいるんだ」という実感が込み上げた。一方、Jerry NolanはJohnnyの隣のブロックに眠っていた。思えばNEW YORK DOLLS時代から、Johnnyの歌とギターが最高にドライヴする瞬間は必ずJerryが後ろでドラムを叩いていた。いわば兄弟、口の悪い表現をすれば腐れ縁である。これまた落ち葉と土埃を手で払い黙って手を合わせた後、再びJohnnyの墓石の前に戻り色々なことに思いを馳せた。ふと近くの木に目をやると2匹のリスが追いかけっこでもするかのようにチョロチョロと登って行った。
さて「もういい加減帰ろうか」ということになったのだが、駅までの道程を思うとさすがに歩く気力もなくタクシーを呼ぶことにした。事務所でタクシー会社の電話番号を教えてもらい外の公衆電話の前でウロウロしていると、初老の白人男性が「何か困っているのか?」と話し掛けてきた。タクシーを呼びたい旨を伝えると、彼は「俺に任せておけ」と言わんばかりに受話器を取り上げ、しかも自分のポケットから取り出した小銭で電話を掛け始めた。「これでOKだ。15分くらいで来るよ」と言ってニコリと笑う彼に、丁重に礼を言いながら立て替えてもらった小銭を手渡そうとするのだが、彼は頑なにそれを受け取ろうとしない。何でも彼は兵役に就いていたころ日本に駐留していたらしく、佐世保や岩国といった地名を挙げながらそれを説明してくれたのだが、暫しの会話の後そそくさと車に乗り込み走り去ってしまった。「アメリカって国もまだまだ捨てたモンじゃねえな」といたく感動した俺なのだが、バチ当りなことにその親切なオジサンの名前はすっかり忘れている俺なのだった。以上、N.Y.ちょっとイイ話。
その後、地下鉄でマンハッタンに戻り、最南端にあるBATTERY PARKという公園(ここにも超カワイイ野良リスがウジャウジャいる)で自由の女神を遠く望みながら一服入れた後、同時多発テロの現場の一つであるW.T.C.跡地を見ておこうということになった。可能な限り最前線まで近付いてみたのだが、丁度サンクスギヴィングとやらに併せた連休中だったらしく、恐らく地方からN.Y.見物に来たであろう観光客で溢れ返っていた。そのすぐ脇を、黒焦げになり歪んだ巨大な鉄骨が大型トレーラーに載せられ運び出されて行く。しかもマヒしてしまったライフラインを復旧させる工事のため、そこら中で道路が掘り返されており狭い歩道ですれ違うのも一苦労である。しかし、そんな光景すらも大掛かりなアトラクションに思えてしまうほど現場はすっかり観光地の様相を呈しており、人々は「オーマイガーッ!」とか何とか言いながらも(言ってないのかもしれないが)写真やビデオの撮影に余念がない。だが、ここに集まっているのは紛れもなく善良なアメリカ国民達なのだろう。しかし、この"善良な国民"というのがクセ者なのではないか?さすがに善良なだけあって彼らに全く悪気はないのだろうが、逆に言えば目の前で起っている出来事を疑ったり斜めに見たりしようとしないため(出来ないというべきか?)コントロールする側としては非常に扱いやすいのだ。ましてや"自分達の先祖が一から築き上げたアメリカ"みたいな身勝手この上ない愛国心を植え付けられていようものなら尚更である。だからこそ90%の国民が報復攻撃を支持したのだろうし、自分達こそが正義だと信じて疑わないのだろう。だが、今までアメリカが世界中でやってきた様々なことを省みれば、今後も何時こんな事件が起るとも限らない。かつてはアメリカの経済と繁栄の象徴だったW.T.C.だが、わずか数名のテロリストによって瓦礫の山と化されてしまった姿を見ていると、それは虚勢を張りながらも復讐に脅えるアメリカの象徴のようにも思えた。
翌日、ノンビリできる最後の一日をどう過すか考えた末にEAST VILLAGEを散策することにした。実は今回の日程を決めてしまった後、あのCBGB'Sでギターウルフがギグを行うという情報を掴んだのだが、何とそれは我々が帰国する翌日だったのである。観られないものは仕方ないのだが、せっかくだからという訳でEAST VILLAGEにあるCBGB'Sへ行ってみた。店の前にあるショーウィンドウには、昨年4月に亡くなったJoey Ramoneへのメッセージと共に花が生けてあり、そこがまさしくN.Y.のアンダーグラウンドなロックシーンを作り上げた伝説の場所であるということを物語っていた(何でも周辺の通りに"Joey Ramone"という名前を付けようという動きもあるらしい)。併設されているギャラリー兼バーへ行くと、黒人の女の子と丸々太ったネコが店番をしていた。少し休憩しようという訳で、カウンター席に座りビールを注文したのだが、さすがネコ好きのTSOUSIE、N.Y.まで来てもネコいじりに夢中になっている。カウンターに戻った彼女が店番の女の子に「明日となりでギグを演るギターウルフとは友人なんだけど、私達とは行き違いなの」と言うと、その女の子はギターウルフというバンドを知らなかったらしいのだが、「それは残念ね」みたいなことを言ってくれた。しかし残念だったのはギターウルフだけではなかった。うっかりカメラをホテルに置いてきてしまいネコの写真が撮れなかったのである。それにしても可愛いネコだった。
その後、EAST VILLAGE界隈の洋服屋や雑貨屋、そしてアンティーク屋や本屋の他、レコード屋も数軒見て廻ったのだが、WOWSVILLEというレコード屋はなかなか面白かった。店主のオヤジがとにかく日本贔屓らしく壁には日本のバンドの7インチ等が数枚飾ってあったのだが、その中にTHE GOLDEN ARMSの「Oriental Junk Sick」を発見。遥かN.Y.の地で我が心の師匠と対面した俺は、感動のあまりオヤジに「このバンドは俺の知り合いだ」などと思わずカタコトで口走ってしまったところ、オヤジはかなり気を良くしてくれ「ところでLAZY COWGIRLSって知ってるか?カッコいいぜえ」などと余計なお世話をしてくれたのだが、俺は壁に飾られている見たこともないNEW YORK DOLLSの12インチシングルが無性に気になっていた。意を決した俺はそれを指差し「ところで大将、これいくらッスか?」と訊ねたところ、「いや〜、これは俺の私物だから売れないんだよね」との答え。「だったら飾っとくんじゃねぇよ!」と思いつつ、悔し紛れに平積みされた「ギターウルフ in CBGB'S」のフライヤーを数枚鷲掴みにし店を後にしたのだった。ちなみにONO-CHING'S JET BOYSが昨年のU.S.ツアーの際にこのレコード屋でライヴをやった事を帰国後に知ったのだが、間口2間ほどのあの店でよくもまぁライヴが出来たもんだと感心するとともに、きっとONO-CHINGもあの12インチが気になっていたのではないか?と余計な心配をする俺なのだった。
その晩、「せっかくだから最後に何かアメリカっぽい飯でも食おう」ということで、ホテルの近所のステーキハウスへ行った。トラディショナルな佇いだが活気のある店内はやたら騒がしく、アイリッシュ風のバンドによる生演奏も行われている。オーダーを取りに来た若いウエイターは革ジャンを着た我々を見て「俺もパンクが好きなんだ」などと言っていたが、やはりそうきたか…という感じ。そして無難なセンで適当にオーダーして待つ事しばし、現れたステーキを見て我々は愕然とした。最も厚いところで40ミリはあろうかというその肉の塊は、そのまま起しても直立しているのではないか?というほどデカかった。「果して食いきれるのか…?」という一抹の不安を抱えつつも、サイドメニューを頼まなくて正解だったと胸をなで下ろしながら隣のテーブルに目をやると、家族連れが前菜の貝料理を貪り食っている。やっぱりアメリカ人はどっかオカしい…。しかしこんなステーキ如きで奴等に負けたとあっては、第二次大戦で犠牲になった皆さんに対して顔向けできないではないか。俺は目の前に横たわる肉の塊をひたすら刻んで食い続け、なんとか完食することに成功した。ちなみに肉食獣で馴らすTSOUSIEの胃袋もさすがに歯が立たなかったのか、あえなくリタイアしてしまったのだが、機内でのトランプ勝負にことごとく連敗を喫していた俺は、旅の最後でやっと掴んだ勝利に心の中でガッツポーズをしたのだった。
という訳で、正味の滞在時間が2日ちょっとというハードスケジュールのため観光はおろかライブ観戦もできず、また本腰を入れてレコード屋も廻れなかったため、TOWERやVIRGINといった量販店で数枚のCD/DVD等を購入しただけだったが、とりあえず最大の目的であったJohnnyとJerryの墓参は実現した。N.Y.の街も本当に魅力的で、もし再訪できるとしたらゆっくりと腰を据えて歩き回ってみたいとさえ思った。そうだ、その時はCBGB'Sのネコを写真に撮ってこよう。何はともあれ一年前ならば、まさか本当にN.Y.へ行くだなんて思ってもみなかっただろうが、そんな俺の背中を押してくれた同行者のTSOUSIEに改めて感謝します。
そして、ありがとうJohnny。俺は貴方から色んな素晴らしいものをもらったよ。貴方の音楽はいまだに俺の心を躍らせるし、貴方が優れた音楽家だって事が一人でも多くの人に伝わればいいなと思ってる。それはこれからも一生変らないと思うし、そうありたい。ところでJerryとは仲良くやってるかい?あれだけ近くにいるんだから、きっとケンカしてもすぐ仲直りできるよ。それじゃ、Bye Bye JOHNNY !
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