1952
7月15日、ニューヨーク州 クイーンズで生れる。本名 JOHN ANTHONY GENZEL。
野球小僧として少年時代を過ごすが、髪を切るのがイヤで野球の道をあきらめてしまう。その後、7歳年上のお姉さんの影響で音楽に傾倒して行く。
主にGENE VINCENTやEDDIE COCHRAN等の50年代ロックンロール、60年代のガール・グループ、そしてTHE ROLLING STONESなどのイギリスのバンドに夢中になっていたという。
そしてJOHNNYは最初のバンド 「JOHNNY AND THE JAYWALKERS」 を結成。
1969
ガールフレンドと一緒にイギリスに渡る(17歳!)。そこでJOHNNYは約3ヶ月の間に60ものロック・バンドを観たのだという。
その後ニューヨークに戻ったJOHNNYは、MAX'S KANSAS CITYなどのアンダーグラウンドなシーンに関わり始める。
この頃、すでにDAVID JOHANSENとも顔見知りになっていたらしい。
1971
ARTHUR KANE、BILLY MURCIA、RICK RIVETSから成るバンド 「ACTRESS」 にJOHNNY VOLUMEとして参加。その後、JOHNNY THUNDERSと改名する。
SYLVAIN SYLVAINがギタリストとして加入し、RICK RIVETSをバンドから追い出す。
バンド名を 「THE DOLLS」 と改め、その後JOHNNYによって 「NEW YORK DOLLS」 と再び改名。
年末、ボーカリストのDAVID JOHANSENが加入。5人でのリハーサルを開始。
12月、ENDICOTTE HOTELのクリスマス・パーティーで最初のギグ。主にR&Bとソウルのカバーによるセット。
1972
6月、PARAMOUNTのA&R担当者、MARTY THAUによって9曲のデモを録音。これは81年に 『LIPSTICK KILLERS』 として発表された。
この時期のNEW YORK DOLLSのギグには、DAVID BOWIE、ALICE COOPER、TODD RUNDGREN、JOHN CALE、LOU REED、BETTE MIDLERなど、そうそうたる面々が見に来ていたという。
7月、英国MELODY MAKER誌の記事に興味をもったFACES側からのオファーで、イギリスに渡り前座を務める。
同月、ケント州のESCAPE STUDIOでデモ・レコーディング。これは後に、4曲入り12インチ(さらにその後2枚の12インチ)として発表された。
11月、ドラマーのBILLY MURCIAが酔って風呂に入り、溺死する。齢18での非業の死であった。
12月、後任のドラマーとしてJERRY NOLANが加入。
1973
3月20日、NEW YORK DOLLSはMARCURY RECORDSと契約。
4月、TODD RUNDGRENのプロデュースにより、デビュー・アルバムを一週間でレコーディング。
7月27日、デビュー・アルバム 『NEW YORK DOLLS』 発表。ビルボードでの最高位は116位。
翌日から、アルバムをひっさげての、2ヶ月間に及ぶUSツアーを開始。
11月28日、イギリスのテレビ・ショーで 「Jet Boy」 と 「Personality Crisis」 を演奏するが、司会者(?)によって 「こけおどしのロック」 と酷評されてしまう。
しかしこの時の演奏が、後のパンク・ロッカーたちに与えた影響は大きかった。
12月、パリのギグでJOHNNYは、ツバを吐きかけてきたファンの頭をギターでブッとばす。
1974
1月、SHADOW MORTONのプロデュースにより、セカンド・アルバムのレコーディングを開始。
7月、セカンド・アルバム 『IN TOO MUCH TOO SOON』 を発表。ビルボードでの最高位は167位と、前作を下回った。
同月、USツアーを開始。
8月、UKツアーがビザ問題のために中止となってしまう。しかもバンドはドラッグやアルコールなど別の問題も抱え始めていた。
JOHNNYとJERRYはヘロインを打つようになり、ARTHURは酒でメロメロだったためPETER JORDANが裏でベースを弾く・・・という有り様だったのだ。
12月、JOHNNYとJERRYはメタドンによる治療を、ARTHURはアル中の治療をそれぞれ開始する。
1975
2月、一儲けしようと企んだMALCOLM McLARENによって、VIVIENNE WESTWOODによる真っ赤な衣装と、コミュニストの赤旗をあしらった
「RED PATENT LEATHER」 ショーを開始。しかし、ベトナム敗戦の後遺症が癒えないアメリカのメディアの反応は惨たんたるものだった。
3月2日、ニューヨークのTHE LITTLE HIPPODROME CLUBでギグ。この演奏は84年に 『RED PATENT LEATHER』 として発表された。
4月、フロリダを皮切りに8公演のツアーを開始するも、その途中でJOHNNYとJERRYはバンドを脱退してしまう。
しかしNEW YORK DOLLSは結局76年まで続行し、来日まで果たした。