1952年7月15日N.Y.のクィーンズ生れ。野球選手を目指すも、髪を切りたくないとの理由により断念。その後いくつかのバンドを経てACTRESSに参加。後にNEW YORK DOLLSと改名し、1973年MERCURYからデビュー。『NEWYORK DOLLS』、『IN TOO MUCH TOO SOON』 の2枚のアルバムを発表し、後のロックンロール/パンク・バンドに多大な影響を与えるも、75年のアメリカ・ツアー中、ジョニーはドラマーのジェリー・ノーランと共にニューヨーク・ドールズを脱退。
ちょうど同じ頃テレビジョンを抜けたばかりのリチャード・ヘル、元デモンズのウォルター・ルーを誘い、HEARTBREAKERSを結成。間もなくバンドの主導権争いによりヘルが脱退し、ビリー・ラスが加入。76年暮れ、アナーキー・ツアー参加の為に渡英し、パンク・ムーブメントの渦中で熱狂的に迎えられる。そのままロンドンに留まったバンドはTRACKと契約し、77年にアルバム 『L.A.M.F.』 をリリースするも、ミックスを巡る争いからジェリーが脱退。元クラッシュのテリー・チャイムスを代役に立てバンドは存続するが間もなく解散してしまう。
ロンドンに残ったジョニーはソロ活動を開始し、英国の錚々たるロッカーをバックに配したアルバム 『SO ALONE』 を78年に発表。また、それらのメンバーを従えリヴィング・デッド、ジョニー・サンダース・レベル名義でのライブもこなした。その後、N.Y.でハートブレイカーズを一時的に再結成させた後、79年に元MC5のウェイン・クレイマーとGANGWARを結成。しかし、数曲のスタジオ・デモと数回のギグをこなし80年にバンドは解散してしまう。
ギャングウォー解散後、特に目立った活動もせず死亡説すら流れる有り様だったが、ストーンズ黄金期のプロデューサーとして知られるジミー・ミラーを迎え、82年にレコーディングを開始。83年にスタジオ+ライブの変則2枚組 『IN COLD BLOOD』 を発表し、ヨーロッパでのライブ活動も盛んに行う。翌84年には全曲アコースティック・ギターによる弾き語りアルバム 『HURT ME』 を発表。その後再びハートブレイカーズをロンドンで再結成させ、ライブ・ビデオとアルバムを発表。85年には奇跡の初来日を果たし、7年ぶりのエレクトリック・フル・アルバムとなる 『QUE SERA SERA』 を発表。その後も86年、88年とコンスタントに来日公演を行い、日本のロック・バンドとも交流を深める。
88年にはパティ・パラディンによるプロデュース・共演による全曲カバーの 『COPYCATS』 を発表。その後バッキング・メンバーを一新し、 THE ODD BALLSを結成。91年4月には4度目の来日を果たし、元気なところを見せてくれた。公演後の4月19日、ドイツへと渡り現地のパンク・バンド、ディー・トーテン・ホーゼンのレコーディングで 「Born To Lose」 にゲスト参加。22日には長年の憧れの地であったニューオーリンズに到着。翌日、投宿していたSt.ピーターズ・ゲスト・ハウスにて永眠。享年38歳。